文筆家 北沢夏音の右脳左脳
“KITAZAWA,NATSUO――The Who?”
探偵的時間旅行者。現実的夢想家。NOW的文筆家(あいさとう命名)。
オルガナイザー。蔵書10,000冊。レコード7,000枚。猫2匹。
1993年より、あいさとう(ヘアー)、フミ・ヤマウチ(ex.DJ Bar
Inkstick,ex.Barfout!)と共にパーティー「自由に歩いて愛して」を、
2000年より、その発展形として「NOW」を主宰。
現在、江戸、深川在住。終の住まいには火星を選ぶ予定。
■「渋谷系」とはいったい何を指すのか、よく解らなくなってから既に久しい。コンビニで「渋谷系もやし麺」
というカップ麺を発見した時は、いったいどういう冗談だ?と、思わず手にとって30秒ほど凝視。
それでも解らなかったので調べると、《渋谷の人気店「喜楽」を発祥とした「渋谷系」独特のラーメンは、
あっさり醤油スープにたっぷりのモヤシが特徴。昔ながらの渋谷系ラーメンを再現しました》。
「喜楽」か……最近行ってないな、と本題からズレていくばかりなのでもうやめるが(『POPEYE』で
フリッパーズ・ギターが連載していた頃なら格好のネタになっていたはず)、音楽の方の「渋谷系」
発祥の地はというと、やはり名物バイヤー太田浩氏が売場にいた頃、’90年代前半のHMV渋谷店
J-POPコーナーしか浮かんでこない。■しかし、売場しか浮かばないという事は、そこにあったのは何らかの
シーンやムーヴメントというより「マーケット」ではないかという事になる。それはそうだが、シーンも、
ムーヴメントも、その時確かにあったのだ。■ただし、そうしたシーンやムーヴメントの本当の発祥は、
下北沢南口商店街にあった<スリッツ>という、かつては<ZOO>という名で知られていた、今は
無期休業中のクラブである事が多かった。「渋谷系」のコアともいうべきLB NATION(SDP、かせきさいだぁ、
TOKYO No.1 SOUL SET他)をはじめ、クルーエル、トラットリア、トランペット・トランペット(エスカレー
ターの前身)、リトル・クリーチャーズとその仲間達(ダブル・フェイマス、ポート・オブ・ノーツ他)等々
ここから生まれたムーヴメントやレーベル、巣立った人材は枚挙にいとまがない。■そして、彼らは皆「子ども」
だった。彼らのパーティに集まっていたのも子ども達だった。それに「渋谷系」というタグを付けたのは、
大人達だったけれど。「渋谷系」は大人と子どもが入り混じり、時には入り交じるボーダーだった。
当時のHMV渋谷店の一角は、子ども達に人気の駄菓子屋で、太田氏は“いつもそこに居る気さくなオジさん”
だった。@は’96年7月26日、閉店直前の渋谷<Electronic Cafe>にて開催された「太田ナイト」の実況録音。
加地(秀基)くん、小山田(圭吾)くん等をバックに太田氏が3曲歌うナゾのブートレグで、「渋谷系」
と言われて真っ先に浮かぶのが「太田さん」である以上、ぼくにとってはこれが渋谷系を代表する一枚だ。
そして、氏が現場を離れたその日がポスト「渋谷系」ERAの始まりだったという事。相前後して<スリッツ>も
突如閉店、時代は変わる。ゴッドファーザー(=実の親)山下直樹氏は翌'97年に自主レーベル、スカイラーキン
をスタート、クボタタケシ+渡辺俊美の初EP『TIME』を皮切りに、現在はその二人や川辺ヒロシのミックス・
テープを精力的にリリースしている。 Aは“渋谷系が青春だった”団塊ジュニア逆ギレ!!そのまんまスタ・カン。
そのまんまSDP。でも今はそれでよし…か?(泣笑) Bはグループ名を渋谷系最大のアンセム、ロジャー・
ニコルスの同名アルバムから採っている上、先日某所で見かけたヴォーカルのサツキさんは冬でも長袖ボーダー、
とてもお似合いでした。だから…というのは半分冗談だけど。クレイジーケンバンドは横浜が生んだ「いつのまにか
渋谷系」代表。Cに収録のリミックスを手がけた小西康陽、Sunaga t. Experience、コモエスタ八重樫、タジマ
タカオは、つまり第三京浜? Dは“銀色夏生に見出され文庫デビュー(ただしモデルで)/マンチェ第2世代
としてレコード・デビュー/映画俳優/自主映画監督/下北ギター・ポップ番長/現DJ/イビザ島リピーター”
と経歴を辿るだけで面白すぎる快男児、杉浦英治のハウシーなソロユニット、チャーム爆発の一枚。
Eはフリッパーズ・ギターのラスト・ヴィデオ・クリップ集『TESTERMENT』にも出演、新宿<JAM>と
下北沢<ZOO>の両方でフェイスだった唯一のモッドの“早すぎて目に止まらなかったのかもしれない”快作。
Fはシーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーの日暮愛葉とシャカゾンビのTSUTCHIEが組んだ
新ユニットの超キュートな初EP。Gは「渋谷系」もうひとりの父、岸野雄一の私塾・京浜兄弟社門下生、
永田一直が'70年代型ドラム&ベース+和モノサントラのコラージュという大ネタで、モンド・ブーム当時の
しぶちか(渋谷の地下)を震撼させた魂の記録。Hは「渋谷系」のオルタナティヴなスピン・オフ「デス渋谷系」
の最良のドキュメントとも言うべきブルース・カヴァー(というか解体)集。プレゼンテイターは現在も続く
コア・ミックスな名物イヴェント「FREE FORM FREAK-OUT」主催者、小林弘幸。Iはデビュー作
『ASSEMBLER!』('92年)がHMV渋谷店の売上チャートでユーミンだったかサザンだったかを
瞬間風速で抜くという、渋谷系全盛期を象徴する伝説を遺したバンドの、アシッド・ジャズというよりは
“高田馬場のミーターズと川辺ヒロシの出会い”だった実像を刻んだ掛け値無しのクラシック。('03.4)
***★ マキシマム・インディヴィデュアル10+1(1995〜2002) 辰RUE-L GROUND ORCHSTRA/CRUE-L GROUND ORCHSTRA 。(Crue-l,’02.5)
バンドでもソロでも超え難い創造的限界を、レーベルごと一つに融合する事で
見事に超克した真に有機的/音楽的/精神的な共同体。鏑ui/Where does a Bluebird fly ? + Independence Day(B BIRD,’02.6,7)
R&B、レゲエ、ポエトリー等、ストリートに根ざすレベル・ミュージックから
スウィートなロックステディまでオリジナルにミックス。拍高謔、こ/アダムとイヴのように(VIVID SOUND,’00.9)
歌:渚ようこ/作詞作曲:あいさとう/演奏:ヘアーという名コラボの頂点。
“新宿版スクリーマデリカ”と異名をとった和モノ最尖端。百ISTER PAUL/THE EDGE OF THE WORLD(CAPTAIN TRIP,’00.9)
ヴェルヴェッツとダムドが痙攣しながら合体!! ’01年発表の3rdアルバム『HOWL! HOWL!』
も甲乙付け難い。トリオ編成のライヴも必見。邦AHER SHALAL HASH BAZ/FROM A SUMMER TO ANOTHER SUMMER(AN EGYPT TOANOTHER EGYPT)
(Geographic,’00.6)
英グラスゴーの至宝ザ・パステルズのスティーヴンとカトリーナ主宰の
新レーベル設立の契機となった色々な意味で記念すべき作品集。幽ERBEST MOON/CONCRETE RIVER(Straight Up,’00.3 ※アナログリリースは’99)
札幌の雄BOSS THE MC(tha blue herb)別ユニットの同郷のブルースマンSIONに
インスパイアされた1st SG。16分23秒に及ぶM2は圧巻。老.A./Poet Portraits CHAPTER 1(Poet Portraits,’99.12)
郊外都市の青春18組のポートレイトもしくは21枚の淡彩画。’02年の第3集は鳥取の
トリ・レーベル、名古屋のザ・シロップまでリンク。儡AKANA/LITTLE SWALLOW(Bad News,’98.発表月不明)
代表作6曲の再録だが全て原曲を凌駕。入門編としても最適。
’00年ジム・オルークのリミックス2曲を含む3曲を追加して再発された。啖.A./Sign Off From Amadeus(MIDI Creative,’96.11)
参加アーティストは現在リトル・クリーチャーズ主宰のコーディアリー・レーベルに集結中。
メジャーでは異例の無理のない展開に注目。10.パラダイス・ガラージ/ROCK’N’ROLL 1500(TIME BOMB,’95.発表月不明)
スカム/ローファイの文脈で語られてきたが、今あえて“ネオ・アコの名盤”
と呼びたい青春の1st。廃盤だがリイシューを切に願う。※ V.A./はっぴいえんどかばあぼっくす(OZ disc,’02.5)
常に奇をてらう姿勢には正直、違和感もあったがここまでやるレーベルはOZだけか。
完成度も高く文句なしに歴史に残る銘箱。
■「誰かが何かを始める時っていうのは、過去の人生経験や、したい事としたくない事の感覚における
否定肯定両方の反応が絶頂に達した時といえる。パンク・ムーヴメントは僕に刺激を与えてレーベル
設立への行動を起こさせた。社会の構造は人々に彼らが何者であるかを教えて簡単に操れるものだ
と限定することで現状維持を続けてきた。接触不可能なエリート達がほとんど力を独占している間違った
システムが確かに存在している。僕の目的はこの現実の間違った単一的な論理に挑戦しコミュニケイトして、
輝かしくカラフルな意見と個性の様々な暴動を起こす事だ」(アラン・マッギー、1991年)■’80年代から
’90年代にかけて一時代を築いた英国屈指のインディペンデント・レーベル、クリエイションの初期シングル
50枚をまとめた記念碑的CDボックス『クリエイション・スープ』の日本盤ブックレット・オーナーのこの
発言を、クリエイションが消滅し、目的の見え透いた「番号」をぼくらが為す術もなく背に押された今、
当時以上にみぞおちにくる感じで再び噛みしめる事になったのは、本稿のテーマを貫きながら自活し
持続する事が益々困難なこの国で、かのスピリットを受け継ぎ実現している理想のインディペンデント・レーベル
として、上記ボックスの日本盤監修者・瀧見憲司が同年自らスタートしたクルーエル・レコーズを即座に思い浮か
べた所為だ。■奇をてらわず、狙う事なく、常に心地よいテンションがある。変化する事を恐れず、王道である
と同時に前衛でもあり、なおかつ適度にゆるい(それがセルアウトせずに続ける秘訣かもしれない)。
@はその音楽的達成を象徴する一枚。「Five Go Down To The Sea」(註:初期クリエイションにその名を
とどめる瞑バンド)という曲名に微笑を誘われつつ、53分57秒まるごと’91年の1stリリース『BLOW-UP』の
ラスト直前に置かれたヴィーナス・ぺーターのジングル1分39秒のExtended Versionとも言える事に気づくと、
或る感慨をやはり禁じ得ない。■「独立」(Independent)とは、真に「個人」(Individual)であることの
究極のかたちだ。個人であることの熱量の昂まりが、独自のコミュニティを形成し、外部の個人と繋がり、「世界」
を変える(さもなくば何も変わらない)。ここに挙げた作品の一つ一つがその証左であり希望であるとぼくは信じる。
Aはザ・ヘアー、東京スカパラダイスオーケストラのシンガーとして知られる杉村ルイが自身のレーベルを設立、
2枚同時にリリースしたソロデビュー作。巷に溢れる自称他称パンクに決定的に足りないものが何か、聴けば解る。
真に歌うべき理由を持ったソウル・レベルの新たな第一歩。Bはそのルイをシンガーにモッド・グループとして
スタートしたヘアーが、ジャズロックに進化後さらに尖鋭化、名曲揃いの本作はリードトラック「アダムとイヴ」
がダンスフロアを震撼させた和製レアグルーヴ(いわゆる“和モノ”)の極致。その後、渚ようこは横山剣(クレイ
ジーケンバンド)プロデュースによるミニアルバム『YOKO ELEGANCE』(’02年)に続いて、今年4月には自ら主
宰する新レーベルSounds of Eleganceから、万博サウンドの第一人者ゲイリー芦屋プロデュース、三島賞作家・
中原昌也作詞による新曲「愛の逃亡者」を(同時に二枚のライヴ盤も)発表。ヘアーは6月に待望の新作を小西康陽
率いるレディメイド・インターナショナルから予定している。Cはゆらゆら帝国からヤホワ13のボックスまで出す
驚異のロックンロール・レーベル、キャプテン・トリップが放つスピードグラムパンクの超新星。高い声の男性
ベーシストと低い声の女性ドラマーがヴォーカルを分け合うアンドロジナスなスタイルは衝撃。マヘル・シャラル・
ハシュ・バズは’80年に名盤『天皇』を遺した元ノイズの工藤冬里・礼子を中心とするフリー・フォームな楽団で、
彼らが自然に醸し出す牧歌的なサイケ感が本来聴く者を選ばない事を広く知らしめたDは、編集盤ながら「孤高の
存在」が理想的なかたちで外部と繋がった好例として。’01年には盟友・渚にての、前身ハレルヤズを含む
編集盤『ほんの少しのあいだ』も同レーベルからリリースされた(日本盤はP-VINEより)。Eはチェ・ゲバラ
が転生した都市ゲリラの為のブルース。《星は誰にでも同じ明るさで光る/状況がそこで影響するとしたら
それは自動的にグチか言い訳のどっちかだ》──リリックはハードだがTOKYO No.1 SOUL SETの支持者は聴くべき。
Fは自身もCobalt名義で手作りのカセット、MD、CD等を発表している高澤直人が主宰する愛すべき自主制作
レーベルの1stコンピ。英チェリー・レッド・レーベルの1stコンピ『Pillows & Prayers』と同じ空気を感じる。
さかなは’80年代から活動する男女二人組。彼らも「孤高だが孤立せず」の典型で、Gは現在に至る新展開の
端緒となった傑作。“中性的”としか言いようのないソウルフルな美声に時を忘れる。Hはクルーエル同様の発展
を続けるリトル・クリーチャーズを核とするシーンの最初の記録。「都市にもプリミティヴなものは存在する」事の
鮮やかな証明。Iは“パラ・ガ”こと豊田道倫の原点。録音はラフだが、「移動遊園地」や「サマー・ソフト」等、
どきどきするほど良い曲がある。’00年のベスト盤『かっこいいということはなんてかっこいいんだろう』(Oooit)
で確かめて欲しい。※は本稿のテーマの拡大解釈としても本気の冗談としても究極。特にオリジナル・アルバムの
ジャケットをカヴァーした人選と出来映えにはやられた。('03.4)
★『文藝』(河出書房新社)2001年夏号:岡崎京子特集「ぼくはくたばりたくない」
不世出の漫画家・岡崎京子さんの特集号にエッセイを寄稿しています。文藝`01年夏号/岡崎京子・完全版
ぼくはくたばりたくない
1.むかしむかし──八七年から八九年にかけて、とある出版社の、駆け出し漫画編集者と
して、日々是修行の毎日を送っていたことがある。漫画の編集は専門職で、促成栽培はき
かないのが普通だ。いったいいつになったら自分の好きなように出来るのか、それはもち
ろんヒット作を出して、会社を儲けさせてからだということは、イタイほどわかっていた
けれど、うまくかたちにすることができない。ようやく新連載を起こせるようになった頃、
会社員にはつきものの人事異動で、ぼくの短い漫画編集者時代は唐突に終わった。
苦い思い出が多い中、唯一の自慢(?)が、岡崎京子さんに、全く畑違いの少年誌に作品
を描いてもらえたことだと言ったら笑われるだろうか? 本誌ではなく増刊、しかもたっ
た八ページだったけれど、初めて自分の好きな作家に原稿を依頼できる。それだけで
本当に嬉しかった。
岡崎さんとは、下北沢の、彼女の実家の床屋さんの近所の喫茶店で待ち合わせた。彼女
は、「少年誌は初めてだ」と言い、「うまく描けるかなー」と首を傾げた……ような気が
する。雑誌が出るのは一二月ということもあって、「クリスマス・ストーリィなんてどう
でしょう」と提案すると、「そういえばまだ描いたことないか」と、あっさりOKしてく
れた。調子にのって「『バージン』みたいな感じでいいです。アレ、すごい好きです」と、
絶版になっていた白夜書房版を取り出したのをきっかけに、音楽談議に花が咲いた。
しかし、既に代表作『pink』を発表、終わってしまったニュー・ウェイヴの残滓を振り
切って、時代と斬り結び始めていた岡崎さんに向かって「『バージン』みたいな感じで」
はないだろ!と、突っ込みたくなるダメオファーの結果は、当然たあいもない小品だった。
タイトルも思い出せない。作者自身もとっくに忘れてしまったはずだ。
岡崎さんとは、その後もライヴ会場などで、よく顔を合わせたけれど、一緒に仕事をする
機会は、なかなか巡ってこなかった。2.
「過去」はいつも不意打ちに現れる。記憶が、突如鮮明に甦り、ぼくを遠くへ運ぶ。
岡崎さんのことを想う時、いつも最初に浮かんでくる光景は、初めて彼女の漫画と出会
った、下北沢のジャズ喫茶<マサコ>のほの暗い店内だ。ヒマだけはあった学生時代、こ
こへは本当によく通った。たとえば何も予定のない夏の昼下がり、冷やし中華なぞ食した後で涼みに来る。アイスコーヒーを頼み、カウンターの手前の棚から、少年誌・青年誌の最新号を何冊
か抜いて、席に着く。最近の漫画喫茶ほどじゃないけど単行本もたくさん。
『ゴルゴ13』『カムイ伝』『BANANA FISH』etc.……いい感じにゆるい品揃えの中から、未読の物を適当に選んで全巻読破に挑戦。または、近所の古本屋(南口商店街の幻遊社あたり)で
一〇〇円で買った文庫本を、閉店になるまで読み耽ったり。そんな日々の連なりの中、ふと手に
したのが、彼女の最初の単行本『バージン』だった。仲良く一緒に並んでいたのが、高野文子
『絶対安全剃刀』と桜沢エリカ『かわいいもの』。そういう時代──。
一九八五年刊行の、白夜書房版。装幀は沢田としき(SAWADA COMIX!)。いつもよ
りゆっくりとページを繰りながら、本の中に流れる時間と同化していく心地よさを心ゆく
まで味わったのを、昨日のことのように覚えている。
そのときかかっていた音楽は、昼間ならフュージョン、宵の口ならモダン・ジャズだっ
たに違いない。けれど、本の中からたしかに聞こえてきたのは、紛れもなく八〇年代初頭
のニュー・ウェイヴやネオ・アコースティック、ぼくもリアルタイムで夢中になった、淡
く中性的な、あの音たちで、事実作品の終わりには、全てではないにせよ、小さく手書き
で、“B・G・M→O・J, C・V, W・E”といった具合に暗号めいたサインが残され、それ
らが“オレンジ・ジュース”“キャバレー・ヴォルテール”“ウィークエンド”の略であ
ることを解する、くすぐったいような面はゆさを、作者と共有できるのだった。
*
その頃よく聞いていたのがヤング・マーブル・ジャイアンツというイギリスのモックス
ハム兄弟とアリソン・スタットン嬢という何となく奇妙な三角関係を思わせる3人のユニ
ットのレコードで、このへンテコな3人組のつくりだす、そのあまりのつたないちせつさ
と、そのあまりにゆうがな何もなさにずいぶん勇気づけられたものです。
ぴろぴろのオルガンにベースライン、安っぽいリズム・ボックス・リズムに申し訳程度
のギターの音、その上のへたくそでつぶやくようなささやくようなスタットン嬢のうた。
世の中には色んな方法があって、こういうやり方でも大丈夫、O・K。ノージャンル、
または千の方法。 その頃の音楽はそういうことを教えてくれました。感謝しています。
*
一九八九年、初版には未収録だった掌編二篇を追加して新たに編まれた再発版(河出書
房新社・刊)に付されたあとがきの、この一節に全ては言い尽くされてる。
「こういうやり方でも大丈夫、O・K。ノージャンル、または千の方法」──ニュー・ウ
ェイヴの意義を、ここまでさらっと鮮やかに言い当てた人を、ぼくは彼女の他に知らない。
そして、その「あまりにゆうがな何もなさ」──収録作品中最も長い「彗星物語」の前に
置かれた一枚のイラスト:浜辺で靴を脱ぎ、裸足でサックスを吹く少年とヴァイオリンを
弾く少女、に象徴される──こそ、N・Wのいのち、だったんじゃないか?
3.
散らかりっぱなしのレコード棚から、一掴み引っぱり出してみる。まだ輸入盤店に通い
始める前。街の普通のレコ屋で買っていたんだろう、そのほとんどが日本盤だ。
あの頃、英インディー・レーベルの象徴、ラフトレードやファクトリーの日本での配給
元は、徳間ジャパンで、帯のコピーやライナーノーツの、それこそ「ゆうがな何もなさ」
に微苦笑を誘われながら、それはそれでかなり、好きだったのだ。
曰く、「若き大理石の巨人、ヤング・マーブル・ジャイアンツ、ファーストアルバム。
遠く置きざりにしてきた郷愁は、現代の混沌にのまれた我々への子守唄だ」(ヤング・マ
ーブル・ジャイアンツ/コローサル・ユース)とかなんとか。「少年の感性は多くの色彩を
加え、完成されたつややかなタブローへと育った」(ザ・ドゥルッティ・コラム/アナザ
ー・セッティング)なんていうのもあった。ザ・ドゥルッティ・コラムといえば、リー
ダーのヴィニ・ライリーの発言──「ラジカルでアナーキーであるためには、必ずしも激
しい音楽に合わせて大声で喚かなくてもよい。優しく静かな音楽が、ある情況にあっては本
質的にラジカルでアナーキーでありうる。ぼくの音楽はその一例だ」──は、一九七〇年
代末期から八〇年代初頭にかけておびただしく生まれた、それらポスト・パンク・エラの
バンドたちの気持ちを代弁していたように思う。一聴する限りでは、優しく穏やかな、ギ
ターを絵筆に代えたミニマルな音のスケッチであるザ・ドゥルッティ・コラムも、その名
はスペイン市民戦争の共和国軍に参加して戦ったカタロニア出身のアナーキスト率いる小
隊に由来する。パンクと同時期(七六〜七七年)に勃興した<情況派>なる政治的・社会
的変革運動の総称としても使われたその名を自らのバンドに冠したライリーは、「ドゥル
ッティ自身は、戦争のかなり早い時期に銃撃を浴びて死んでしまうが、ドゥルッティ・コ
ラムは彼の死後もしばらくは戦い続けた」という象徴的なエピソードを胸に、「パンクが
形骸化してしまった現状に対する異議申し立てとして」八〇年、ファーストアルバム『ザ
・リターン・オブ・ザ・ドゥルッティ・コラム』をファクトリーからリリース。初回プレ
ス分のジャケットは紙やすりで出来ているという念の入れようは、半ば冗談(「ファクト
リー以外のレコードのアートワークを破壊するため」)だったにせよ、半分は本気だった
ことは疑うべくもない。半分冗談。でも、半分はぜったい本気。
そんな彼らの態度(=生き方)や姿勢は、遠く海を越え日本にも伝来、一時代を築く。
岡崎さんは、彼らの子供だった。そして、少し年下の弟が、フリッパーズ・ギターということになる。
4.
フリッパーズ・ギターとは、まさしくニュー・ウェイヴ/ネオ・アコがつなぐ縁で意気
投合、彼らのメディア上での“共犯者”として密かに活動していた時期があった。それが
きっかけで、ライター稼業に足を突っ込むことになる。岡崎さん本人と知り合ったのも、
彼らとの仕事が縁だった気がする。ちなみに、岡崎さんの作品には、元フリッ
パーズの二人、小山田氏&小沢氏をモデルにしたと思しきキャラクターが頻出する。前者
の代表が、河原で見つけた死体を宝物にしている『リバース・エッジ』の山田君、後者の
代表は、主人公りりこを追いつつ超然と神の座から見守る──そして深読みさせてもらう
なら、トマス・ハリス『羊たちの沈黙』における、クラリス(の上司のFBI調査官)とレ
クター博士の一人二役を、未だ描かれざる第3部以降で担うかもしれない──『ヘルター
・スケルター』の浅田検事である、との言説もある。おそらく、岡崎さんが常に見守り
、
希望を託し続けた<漂流教室の中の子供たち>の、ある種の典型を、二人に見出したのだろ
う。椹木野衣氏の指摘どおり、ぼくらはもはや楳図かずおの世界を生きているのだから。
だが、音楽的には、フリッパーズも二人のソロ作品も、基調音として岡崎作品から聞こ
えてはこない。聞こえてくるとしたら、むしろピチカート・ファイヴだ。殊に、東京とい
う都市を包む或る特有のムード、漂う者の寂寞を捉えて余すところのない傑作「東京は夜
の七時」を聴いた時、“待ち合わせたレストランは/もうつぶれてなかった/お腹がすい
て死にそうなの/早くあなたに逢いたい”という一節が、まるで岡崎作品の一コマのよう
だと思った。彼らの詞の体温の低さ、意識的な空虚さは、退屈と倦怠、微かな希望と諦念、
欲望とディスコミュニケーションに貫かれた岡崎ワールドの多くに共通して立ちこめる気
配でもある。
両者には多くの共通点がある。駄作を恐れず多作なところ。ポップ・カルチュアへの偏
愛。多岐に渡る貪欲なまでの引用とリミックス。九〇年にはステージで共演(?)も果た
している(ライヴEP『レディメイドのピチカート・ファイヴ』クレジット参照)。
思うに、九〇年代に入っての意識的な加速が、両者を「大化け」させたのだ。時代を肯
定も否定もせず、むしろ積極的に身を浸しながら、同時にそれを冷静に見つめるまなざし
を持つ──そうしたまなざしを持つ者のみが、<時代の子>たり得る資格を手にする。相当
の覚悟とタフネス、そのうえ作家的成熟を伴うことが、その先を生き抜くためには不可欠
なのだろうけれど……なんという過酷!
八九年のアルバム『女王陛下のピチカート・ファイヴ』に収録された「夜をぶっとばせ」
を聴き返すたび、いつも岡崎作品の典型的な恋人たちを想う。
二人は(ぼくらは)この後どうなるんだろう。彼らは(ぼくらは)どこへ行くんだろう。
5.
九一年。思わぬチャンスが訪れた。元Y・M・G/ウィークエンドのアリソン・スタッ
トンが、ディヴァイン&スタットンというデュオ・グループで初来日したのだ。漫画誌か
らの移動先であるジャーナル誌で、街ネタのページを担当していたぼくは、イラスト・イ
ンタヴューのかたちを借りて、岡崎さんとスタットン嬢を引き合わせたいと願った。誰か
がぜったいにやらなきゃいけないことだ──そういう思い込みもあった。
それは、本当にうまくいったのだ。掲載されなかったという一点を除けば。理由は……
書きたくない(あまりにバカバカしくて、誰にも信じてもらえないだろう)。スタットン
嬢は、岡崎さんの『バージン』をいたく気に入り、翌日のライヴのMCで、彼女に対する
感謝の気持ちを表した。覚えている人はいるだろうか? あのときスタットン嬢が口にし
た、たどたどしい日本語「キョウコ」は、岡崎さんのことなんだよ。
手元には、愛ある原稿と悔しさだけが残った。彼女に会わせる顔がなくて、長いお詫び
の手紙を書いた。書きながら、自分で雑誌を創ろうと思った。そうしてその後巡り会った
仲間と共に創刊したのが『バァフアウト!』だった。
6.
「未来」はいつも不意打ちに現れる。記憶が、突如鮮明に甦り、ぼくを無口にする。
九六年発表の『チワワちゃん』のあとがきに記された、以下の言葉が忘れられない。
*
この短篇集を編んでみて、読み直したり描きたしたりしながら、あらためておもったこ
とには、人はいろんなことがコワいんだな、ということです(人によってその種類や質は
ちがいますが)。そしてわたしは、自分がいろんなことがコワくなくなるように、これら
のマンガを描いたような気がします。
*
そう、ぼくらは、もうじゅうぶん大人になったはずなのに、いろんなことをコワがって
いる。愛すること。子供を産むこと。マンションのローンが払えなくなること……。
それでも人生は続くのだ。
*
山田君と川ぞいを歩く/橋をわたる/何も喋らずにゆく
*
『リバース・エッジ』の冒頭に、とても印象的なシーンがある。主人公の若草ハルナが、
イジメられっ子で学校のロッカーに閉じこめられた山田君を助けて帰る道すがら橋を渡る。
そのときのモノローグの続きはこうだ。
*
きのう読んだ本には/二〇〇〇年に小惑星が激突して/地球の生態系はメチャクチャに
なると書いてあった/あたし達が24才になる頃だ/今日みたTVではオゾン層はこの十
七年間で/五%から一〇%減少していると言っていた/すでに人間が大気中に放出してし
まった/フロンの量は一五〇〇万トンに達し/この一〇%にあたる一五〇万トンが/成層
圏にしみ出し/オゾン層を破壊しているらしい/だけどそれがどうした?/実感がわかな
い/現実感がない/こうして山田君と歩いていることも/実感がわかない/現実感がない
*
<橋を渡る>という行為には、とても深い意味が隠れていると思う。いにしえは「公界」
と呼ばれた、誰のものでもない場所。子供の頃から、橋を渡るのが好きだった。
住み慣れた下北沢を離れ、今住んでいる下町に越してきたのも、ここが海にほど近い河
と運河の街だったからだ。家路につく途中、何本か河を越え、橋を渡る。河面に浮かぶ鳥
たちを眺める。そして、風に乗って、海の匂いが、微かに鼻腔をかすめるたびに、もう少
し頑張ってみようと思った。たかがそれっぽっちのことで、ちっぽけでもたしかに希望が
持てた。つい最近のことだ。いつものように橋を渡ろうとしたぼくの目に、見覚えのない看板が
飛び込んできたのは。「××川護岸建設工事(その50)のお知らせ」××川では、大地震にそなえて今よりもじょ
うぶな堤防をつくっています。この工事では鉄のパイプを連続して地中に打ち込み、地震のと
きに川岸がくずれないように壁をつくります。また、川の底の土を固めて、鉄のパイプがぐら
つかないようにします。この工事に要する費用は、次のとおりです。
●事業費 八億七五〇〇万円
●内訳 都費 六億一七〇〇万円
国費 二億五八〇〇万円
この工事で発生する土砂・コンクリート塊は、リサイクルされます。未来をつくろう、みち・水・緑《東京都建設局》
可笑しくて可笑しくて声を出さずに笑った。 大地震にそなえて──河を殺すのか?
*
しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。
むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。
*
『リバース・エッジ』巻末の「ノート あとがきにかえて」の一節が、舌の上で、苦みと共
に溶けだしてゆく。それでも──『ジオラマボーイ パノラマガール』の神奈川健一のよう
に想うのだ。ぼくらが「いろんなことがコワくなくなるように」、骨身を削っていろんな
道しるべをつくってくれたひとりの勇気ある女のこに、ありったけの感謝と祈りを込めて。
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ぼくはくたばりたくないなぁ
何があっても どんなことがあっても(『文藝』2001年夏号初出原稿に加筆)